駆け引きと言うものは詰まるところ、
押すか引くかどちらかなのだろう。
・・・どちらでもない、動かないと言う手もある。
とあの男なら言いそうだが、それを取れば彼は
己の前に現れなくなるのではないか。
あの男はあの男と言うからには女性ではない。
同じ男である、そして同性である己に対してはあの男は
やせ我慢とも言えるプライドを立てる。
己の方から接触を立てば、追ってくることはなく、
元々接点もない互いの身。
何事もなかったように己のいない日常にみつけるのだろう。
に反して、娘を含めた女性に対してはそうでもないのが
不思議なところだ。
ここ数ヶ月、仕事の合間を見ては不審にならない程度に
食事に誘っていた。
あの男も慣れてきたのか「悪いなぁ。」と
社交辞令的を言って承諾し、断ることはあまりない。
拍子抜けするほど、順調である。
しかし今現在、己の立ち位置はあの男の中で
都合の良い男に落ち着いたのではないかと疑念が過ぎった。
よくよく考えてみなくとも、あの男の前での
振舞いは女に振り回されている男のそれだ。
見返りを求めずに、笑顔で応対しことあるごとに食事に誘い。
来易いようにと娘に渡す土産まで毎回持たせて。
思えば、馬鹿なことをしている。
行き着きたい場所は真逆であるのに。
偽りを抜きにしてあの男と己との間柄は
友人と言えるものではないのではないか。
まるで、恋人のそれも使われていると
言うのに嬉々として手を取る馬鹿な男。
あの男はしたたかだ、
したたかにならざる終えなかった結果だとしても。
原因が己にあるのだとしても。
様子を見よう――――もしかしたらそれはあの男への
自己の認識の再構築や再検討を己に
促そうとする期間であったのかもしれない。
だのに、二週間として持たなかったのだ。
愚かしいことに。
あの男とは違うと自負する高いプライドは
あの男の前ではそのような精神の自己保全を図る本能も
体面を努める理性の働きも心地よい一種の倒錯的な
耳に障る音を立てて崩れていく。
「久しぶりですね、成歩堂。」
元気でしたか、と声を掛けると男はいつものピアノの前の席で
行儀悪く上半身をべったりとうつ伏せて座っていた。
その向かいに座ろうと近づく足音に反応して
ノロノロと頭をもたげる男の顔は憔悴しているようにも見え、
考えるまでもなく気分が良かった。
「牙琉・・・。」
低い声は掠れていて心を弾ませるものであるが、
そこに喜びや楽しさと言った感情は見受けられず、奥歯に力が篭る。
ギリッと口内で大きく響く軋みは口外には全く響かない。
あの男の耳に届くはずがないとわかっていながらまるで
精神が立てた音のように、動揺が冷静であろうと努める思考に走る、
苦味を伴って。
椅子を引いて座る。
ただそれだけの動作を自然に行うのに酷く手間取った。
椅子の背を持つ手に力が入り、想定より上に浮き、床と接触する。
音はなかった、当たり前だ。
一度足りとてこの席に座る際にそんなことをした覚えはない。
「すいませんでしたね。」
気付けば謝罪の言葉が口をついていた。
常ならば、嫌味を返す際によく使用するものであるのに
そこには本来の意が込められていた。
意図ではなく。
ここ最近、忙しくて。
凡庸な言葉の連なりは余りにらしくない、捻りのなさ。
「・・・・・・いいんじゃないかな。」
表情筋は硬く唇は弧を描いたまま、硬質化した。
変わりようがなかった。
「何故、ですか。」
常でなくても、らしくなくとも会話を続けるしか術が浮かばない。
「あぁ。」
・・・・・・いいんじゃないかな――――死ねば。
「そう言おうとしたんだよ。」
牙琉、と念を押す、グラスの氷のキューブが解けて、
涼しげに転がるように。
同時に唐突にわかってしまった、
表面に結露する水滴にも似た零れた笑みに。
男は悲しんでなんかいやしないのだこれっぽちも。
男は寂しさなんて抱いていなかったのだすこしも。
どちらも己の方が勝手に描いていた
水に歪んだ波紋を広げる幻想だ。
「ウクライナ風ボルシチとピロシキ、サラート・セリョナヤ。
あとグレープジュース2ビン。先生はどうする?」
「私はロシアン・サラダとフレープ、
ロシアンティーをグリオットチェリージャムで。」
男は何事もなかったかのようにウェイトレスに注文する。
その顔は眠たげでいてそう見せているだけの顔だった。
君が誘ってくれないから、
死んじゃうんじゃないかと思ったんだよ。
などとこともなげに言うのはきっと比喩ではなく。
ただ単に浮くと思った食費の分、浪費しただけなのに。
なんて計画性のないと、と思えば。
あの男の生活には己が気付けば組み込まれていたのだと、
笑ってしまった。
詰められてしまっていたのだ。
既にこの男に自分は。
それこそ留まれず、後には引けぬほど。
だとしたら、考えるまでもない。
「趣向を変えてみましょうか。」
ひとしきり頼んだ料理を持ってきたウェイトレスに
ワイングラスを2脚頼むとグレープジュースが減ることに
面白くなさそうな顔を向かいの男は見せる。
筋肉がほぐれたよりも緩みで自然に浮かんだのだと
帰した笑顔を厳密に述べれば、更にその表情を深くする。
「おやおや、懐の狭い男ですね。」
「懐は狭いんじゃなくて、寒いんだよ。」
注がれた液体は良く見れば
ヴィクトリアン・モーブとワインレッドを合わせたような
色合いを称え、天井の昼間の蛍光灯を映す。
薄く上等なワイングラスの触れ合いは小さく
ハンドベルの音色のように澄んで、店内の喧騒に嚥下されていった。
いいんじゃないかな
弁護士とピアニストの場合