「ありがとう、牙琉。助かっちゃたよ。
感謝してる。いつも迷惑掛けるね。」
いつもは当然のように言わないか、茶化すように軽く述べるに留まる感謝の念。
それを珍しく男は愁傷に声に出す。
何度も騙されてきたというのに歓喜の渦に飲み込まれそうになる己がつくづく、
オメデタイものだと笑ってしまう。
もし何も知らずにいれば素直に応えてしまいそうになる言いようは、
ズルイとしか言いようがない。
「口先ではなんとでも言えるでしょう?」
伴うものなどないと言うのに。
受け入れていれば、幸せなのかもしれない。
言わぬが花とも言えるのだそういう意味では。
あぁ、笑う。
あの男は屈託なく。
「そうだよ。なんせタダだから。」
何故だが叩かれた憎まれ口に嬉しそうにぬけぬけと言う男に
私はいつも負けてばかりいる。
(そう言うことさえ、お見通しなのだ。)
口から生まれてきた男
(わたしも、そして、また)
7年と言うのは短い歳月ではない。
人が生まれて死ぬには十分な時間であるし、
変わるには多すぎるとも言える期間である。
何事をなすには余りにも短く、何事もなさずには余りにも長いと
どこかの――――ジャンルで言えば純文学で、
それも教科書で取り扱っている作品のなかの
一節が浮かぶ‥‥‥‥単元名は思い出せない。
それを読み、学び、なにを得たかが重要なことで
内容云々ではないな、と逃げるも
別段読前と読後で自分に変化が訪れたかと
言われれば言葉に詰まる。
一朝一夕でどうにかなるもんでなし、
人生の肥やしにはなるだろう。
(‥‥諦観か)
諦観、若さとはまた別として
自分には似合わない語であるが今だけは
それが正しいと認めざるをえなかった。
「牙琉検事はデビューこのかた、
ラブソングしか歌ってないんですよね?」
「うん、そうだよ。」
なにか、なにか言わなくては。
開廷への時間はこちらの事情など一切かまうことなく、
チッチッチッチッと耳に付く音で言動を急かせようと、
気を昇らせようとしているかのようだ。
(落ち着け、落ち着くんだ。)
そうやって沈めようと何度も語るのは
落ち着いていない証拠を自ら突きつけているも
同じことで、また発声で痛めた喉が渇き痛い。
後ろ暗さがあると尚更、口は重くなる。
「オデコ君はどう思った?
一般と言うか‥‥幅広い年齢層や傾向の
意見が聞いてみたいからね。」
ロックでラブソングで365日×7(閏年を入れたらもっとだ)も
メジャーで売れ続けていたのだから、
自分にはわからないが凄いものなのだろう。
誠意と言うものの精一杯を振り絞った一滴。
「ご‥‥語彙力が豊富なんですね。」
「ああ、うん。歌詞は、ボクの気持ちを
オンナノコたちに伝えてくれる大切なものだからね。
ありがとう‥‥‥‥。」
(気を使わせてしまったみたいだ。)
煽てて口を軽くさせようなんて、やっぱり自分にはムリだ。
愛を囁くにしても、そうであるように。
「そういえば、オデコ君は自信があるのかな?
今回の法廷はさ。」
「なくて相手検事に会ってたなんて疑われちゃいますから。」
「そりゃそうだ。」
今日もまた証言台に立つであろう彼女は
彼が歌ってきた万の愛の言葉も
難なく蹴っ飛ばしてしまうのだろう。
弁護席で自分は冷や汗をかきながら拙く
真実に近づこうと言葉を尽くす。
依頼人には生きた心地がしなかったと今回も
また言われることは目に見えているけれども。
「お互い、頑張りましょうね。」
しみじみと呟くように発した語に、
付き合いから感じ取ったのか返される
緩慢とした頷きの同意はまだ始まってもいないと言うのに
肩の重みをます結果となったのだ。
言い紛らす
(prevaricate v.)
おれの彼女を器量がいいと思うか、
と友人にきかれたさい、
「表情ゆたかな眼をしているね」と答える。
CAST
紫の検事
赤の弁護士
前を行く男の背中は猫のように少し弧を描く。
毎朝開く新聞に取り上げられた一面は覆い隠すように芸能面を持ち上げるが
隅に追いやられた記事では年々減少を見せる人口がその一途を辿るであろうことを裏付ける。
事務所で休憩時間中にニュースを見ていると見飽きるほどに流れてくる
情報は、その大半が好ましくないニュースだ。
チャンネルを変えれば同じニュース番組であっても流行やスポーツ情報を伝える
ものがあるが興味はなく、BGMであるかのように流しながら資料に手を伸ばす。
痛ましい犠牲者が呼び上げられると一瞬仕事が手につかなくなる。
偽善であるなと思いながら、痛ましいですね、と目新しくもないのに
呟く新入りの弁護士に、そうですね、と返していたことが浮かび笑ってしまった。
遠くの自らと面識の無い者に対しては軋むというのに
身近で親しくしているあの男に対しては苛まれることがない。
それどころか安らぎを感じて。
(あなたは今、辛いのですか。)
自然とほころぶ口元はさぞかし優しく歪められるのだろう。
すれ違いざまに感じる視線からわかる自分の表情に充実する満足を覚えさする。
ペタリ、ペタリと間抜けな音を立てて石畳を鳴らす靴底も嘗てはコツ、コツと
硬質的な音を立てて裁きの庭に足を踏み入れていた。
パーカーに包まれた背中は彼の正しさを象徴するような青い背広で包まれ
真っ直ぐに伸ばされていた、これからに向かって。
「キミといると落ち着くね。」
やわらかく、振り向かれもせずに囁かれた声はあたたかく。
振り向かれた表情は見ずとも同じだった。
死より確実なものはなく、死期より不確実なことはない。
この男が申し渡された前に死ななければ、否、
死のうとしなければ死は誠実に白い歯を見せる。
殊更に足音を立てて喚起を促し、忍び寄りもしないのだろう。
一言も言葉を発する素振りを見せずに、男は私を見ていた。
牢獄にいてもなお、豪奢に飾られた一室と整えられた身なりは
外となんら変わりない。
穏やかな表情は最期を悟っているからだろうか。
女性のように丁寧に巻かれた睫から覗く瞳には憧憬とそれ以上の憐れみ。
私はまるでこの場が立ち尽くす咎人達の檻ではなく、街はずれの
慎ましい教会の中で跪く牧師の前にいるような目眩を感じた。
人を殺したものが、神の下に逃げ込み改心し、
人に救いを説くと言う筋書きは何世紀も前のものだ。
逃げ込みもしないし、救いを説くこともない、
神の下ならば呪いこそすれ祈らない。
悪い行いをしたものこそ、その尊さがわかるなどという馬鹿げたことか。
そのものを救うことこそ、願っているものなのだと言うふざけた話か。
つまらぬ自尊心のために彼を貶め、陥れたこの男に。
(救いを、許されるはずがない。)
男は箱のなかに閉じ込められている。
なにを不安がることがある。
なにが男に出来るというのだ。
なにも出来もしないし、不安を募らせる必要もないではないか。
多数の人々が鎖につながれ、死刑を宣告されているさまを想像しよう。
眼前で絞め殺され、残った者は、自分たちも同じ運命をたどることを悟り、
悲しみと絶望の中で互いに顔を見合わせながら、
自分の晩がくるのを待っている。
生まれながらの死刑囚か。
私達はその光景を当然としながらも恐れている、
目を覆った手の指の隙間を空けて覗きながらも、だ。
あの男はこの審理を悟ることなく、信じている。
盲目的に男が追い求める神の下で。
看守以外の人物が来なくなって久しい隔てられた己が
檻に革靴のコンクリを叩く音は大きなものだった。
暦が外された壁はなんのためであるか告げることはない。
厚くただその沈黙を守っている。
諳んじられるまで読み返した思想書をテーブルに置き、視線を合わせると、
しかしてあの男だった。
訪れるに相応しくない地位と絢爛さに身をつつみながらも凡庸に足を向ける。
思い詰められた表情は何も悟られていない証し。
鋭く研ぎ澄まされ、加えられた力に歪む瞳には同情とそれ以上の困惑。
私はなぜか自分が罪人ではなく、神による救済と幸福を疑うことを知らない
敬虔な信徒の前に立つみすぼらしい町はずれの教会の神父に
なった気がしてならなかった。
人を裁くものが、神の下に逃げ込む、人を裁くことに怯えるが故に。
逃げ込んで、裁きを望み、神の下で安寧を覚えるも救われない。
悪い行いをしたものに、相応の罰を与える正当性か。
そのものを罰することへの、躊躇する良心の呵責か。
つまらない執着心で己を堕とし、堕落した男だ。
(救いを、望んでいるのだろうか。)
男は掌の上に閉じこもる。
なにが駆り立てるのか。
なにを彼が叶えるというのだ。
なにも叶えることはなく、駆り立てるだけなのだ。
彼は一人、笑う。