今日は授業中、昨日聞いた糸鋸刑事のテーマ曲の歌詞が気になり
検索していて、空振り、仕方なしに2ちゃんねる逆転裁判スレQ&Aの
Wikiを見ていたところ。
キャラクターの名前の由来のコーナーがあってそこにゴドーさんの
ものがありました。
名前の由来は
[ゴドーを待ちながら]と言う戯曲から。
吾童川からではなく、逆にこの戯曲から吾童川になったとか。
どうしてゴドーと名乗るようになったかのエピソードはあったらしく
諸事情で、カットされたとあって・・・・DS移植版の3にはそれを挟んで
と思いつつ、でも出来上がっていて隙間が、と。
5で再登場して、そのエピソードが入っていればと夢見ています。
話は元に戻って、この[ゴドーを待ちながら]と言う戯曲は
サミュエル・ベケット氏と言うアイルランド出身のフランスの劇作家の
作品の一つです。
不条理でシュールなこの劇は当初はよくわからないと思われていたようです。
それも、二人の人物が救済者[ゴドー]をただひたすら待ち続けるお話です。
一日の終わりに「今日はこれないが、明日はこれる」と言うゴドーの使いの
少年の言葉を信じ、二人はではもう一日待とう、明日こなかったら
首を吊ろうと言って、まぁ吊らないでぐだぐだ現実味のない実りのない話を
する、舞台は首を吊る木一本の殺風景。
途中二人の主と従者がやってきて演説をしたりダンスをしたりしますが、
基本動きのないお話、二人は座り込んで滑稽に笑い、ゲームをしたり。
でもどこにも行かず、そこにいる。
一部と二部、わかれていてもかわりはなく。
当初はその不条理というかなにもないようなところから悪評でしたが
20言語以上に翻訳され世界各地で公演されている作品らしく
不条理演劇の傑作となっています。
「じゃあ、行こう。」
「あぁ、行くか。」
と言いはしても立ち上がらず。
待てどもこないで首を吊れば、紐が切れて失敗。
「明日は必ず行く」
二人は、
「ゴドーに縛られている。」とわかっていても
待ち続けている。
変わらないそんな日常で劇は幕を閉じる。
「じゃあ、行こう。」
「あぁ、行くか。」
二人の台詞は入れ替わるも。
舞台は360°しか変わらない。
ゴドーは現れない。
救えない、又、救われない。
救われたいけれども、救われてはいけないと言った葛藤があったのではないかと。
どう言った意味合いでこの名前を名乗るようになったのかは神(巧舟さん)のみぞ知る
でありますが。
逆転裁判にあるあの軽妙な会話もよくよく考えれば戯曲的な
応酬に(シェイクスピアもやはり関連しているのでしょうか)似ているように見え。
巧舟さんの知識とその深さに驚かされました。
ゴドーさんにとってのゴドーは成歩堂と千尋さんで。
木の下に座り込むウラジミールとエストラゴンの二人は、
神乃木荘龍とゴドーであったのか。
今月はカツカツなので来月購入予定。
・・・・しまりませんね。
自分で買って読み込めたら、性懲りもなくまた
この話に関して書きそうです。
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